2017年6月30日金曜日

はり新のお料理(季節のゴマ豆腐)

●かみつみち弁当の先付「季節のゴマ豆腐」を、玉蜀黍(トウモロコシ)豆腐からトマト豆腐に変更します。太陽の恵みをいっぱい受けたお野菜をペーストにし、奈良名産の吉野葛を使って練り固めております。

「左 玉蜀黍豆腐、右 トマト豆腐」です
●今年は、玉蜀黍豆腐とトマト豆腐の順番を入れ替えたので、トマト豆腐の出番が7月となります。
 先日の雑誌取材のときにも聞かれました「いったい何種類あるの?」と。まとめてみました。

  睦月  紅白ゴマ豆腐
  如月  若草豆腐
  弥生  よもぎ豆腐
  卯月  桜豆腐
  皐月  そらまめ豆腐
  水無月 玉蜀黍豆腐
  文月  トマト豆腐
  葉月  えだまめ豆腐
  長月  南瓜豆腐
  神無月 落花生豆腐
  霜月  黒胡麻豆腐
  師走  黒豆入り南瓜豆腐

 その他にも、水無月豆腐 滝川豆腐、胡桃豆腐、焼き茄子豆腐、アーモンド豆腐、をお出ししたこともありました。

* 必ず月初めで切り替わるとは決めておりません。また、必ず(何月には何豆腐)と決まっているわけではなく、前後にずれたり、前後を入れ替えることもあります(例えば、落花生豆腐↔黒胡麻豆腐)

 銀杏、さつまいも、慈姑、筍、栗などはペーストにすると香りが乏しくてゴマに負けてしまいます。それ以外には a.胡麻と相性が良いこと、b.ペーストにできること、などの条件があえば、他のお野菜でも季節のゴマ豆腐にすることはできると思います。良いアイデアがあれば教えてください。

2017年6月28日水曜日

はり新の観光案内(大神神社の茅の輪)

●6月30日は各地で「夏越しの大祓」が執り行われますね。今回は、日本最古の神社 大神神社 の茅の輪をご紹介したいと思います。

三連の茅の輪が珍しいですね。こちらは八の字の順にくぐるのが慣わしです。あとで調べてみると、真ん中の輪には杉、右の輪には松、左の輪には榊が掛けられているようです。くぐるのは、杉→松→杉→榊→杉の順番ですよ。


●日本最古と言われる神社はいくつかあるようですが、古事記や日本書紀に神社創祀にまつわる伝承が記されていることから奈良県の大神神社は古社中の古社といえるでしょう。参拝される方の大半が鳥居前で立ち止まって一礼されることから、信心深い方々が集まっていらっしゃる事もわかります。

 こちらの神社は、ご祭神の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)がお山に鎮まるために、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通して三輪山を拝するという原初の神祀りの形を取ります。大神神社でも、一年の折り返しに当たる6月30日には、夏越しの大祓が催されますね。この日は神様に詣でて、半年間無事に過ごせた事のお礼と来る夏を無事に過ごせますようにとご挨拶に伺う日です。

 この日、各地の神社では茅の輪が設けられ、参拝者はその輪をくぐり抜ける事により半年間のけがれを取り去り、真っ新な気持ちで夏を迎えることが出来ます。三輪の大神神社では三ツ鳥居と同じく三連の茅の輪が拝殿手前に設けられます。三つの輪を八の字を描くようにくぐる事になります。

 大神神社の茅の輪は6月30日だけでなく、前後数日間は拝殿手前に設置されているので、機会があれば是非どうぞ。


鳥居前で立ち止まり、一礼。ほとんどの参拝者がそうされるので、
私も自然と一礼してから鳥居をくぐります。背筋がピンと伸びて気持ち良いですね。


階段を登ると拝殿前の茅の輪が見えてきました。
この辺りから見ると三ツ鳥居にも見えますね。

2017年6月25日日曜日

はり新の観光案内(下ツ道 その1/見瀬丸山古墳〜橿原神宮、神武天皇陵〜近鉄笠縫駅近く)

●かつて奈良盆地には南北に走る三本の官道があり、東から上ツ道、中ツ道、下ツ道と呼ばれました。これらの道路がいつ造られたのか詳しくは判らないようですが、壬申の乱(672年)で大海人皇子(後の天武天皇)がこれらの道を効率よく利用して軍を展開した記録が残ります。
 上ッ道と同様、古代の香りがする下ツ道に以前から興味があったので、数回に分けて歩いてみることにしました。(歩き始めたのは9月でした)
途中、神武天皇陵にも立ち寄りました


●当店の看板料理「かみつみち弁当」の「かみつみち」とは上ッ道のことで、当店の前の道が上ッ道の北端となることに因んで名付けました。時代が下ると上ッ道は上街道となり、京の都から初瀬詣や伊勢詣にむかう重要な街道となりました。その後、移動や物流の主役が自動車に変わる昭和中期に国道169号(奈良天理線)が整備されるまで、奈良の物資輸送の大動脈としての役を担いました。現在、かつての上ッ道を歩くと数カ所判りづらい点がありますが、なんとか奈良町から桜井、そして山田寺跡まで歩くことが出来ます。
 一方、下ツ道は奈良時代には平城京と藤原京という新都/旧都の中央を結ぶ最重要道路として重宝されていたと思われます。しかし、都が奈良を離れると街道としての必要性が失われ、横大路との交差点(八木)以外の部分は徐々にに荒廃していったのではないでしょうか。上ッ道同様、昭和中期に今の国道24号線が下ツ道のバイパスとして整備されました。

 今回は藤原京跡の南、見瀬丸山古墳から北上して朱雀門を目指すことにしました。ネットや図書館で調べると、途中まで下ツ道の標識や旧街道らしい雰囲気のある建物があるそうですが、名阪道路の北側は都市開発の影響でルートが良くわからないようなので、歩きながら旧街道の痕跡を探してみることにします。


まずは岡寺駅をスタート地点としました。岡寺駅は近鉄吉野線にある小さな駅ですが、飛鳥方面へのハイキングコースの北起点となるので、朝夕は多くのハイカーが利用する駅です。下ツ道の南端を見瀬丸山古墳とすると聞いたので、まずは岡寺駅から少し北にある見瀬丸山古墳を目指します。
スタート前に念のため駅前にある地図を見てみます。
岡寺駅周辺には藤原京跡や甘樫丘、そして古墳がたくさん
ありますね。古代史好きの方なら、このエリアだけで
2〜3日は楽しめそうですね。




駅ロータリー出口に建つ石碑。明日香村サイクリングで何度も訪ねているので、今回は天武・持統天皇陵はパスさせていただきます。


国道169号沿いの地図です(地図の下方向が北)


案内版は"古墳"の文字だらけですよ(笑)


岡寺駅から15分ほど歩くと右手に丸山古墳が見えてきます。全国で六番目、県下最大規模の前方後円墳。当初円墳と考えられていましたが、後に航空写真等により周庭帯をもつ前方後円墳と判明したそうです。古墳の一部が国道169号により分断されています。







丸山古墳から下ツ道に戻ります。下ツ道を少し北上してから西方面へ。橿原神宮にお詣りしました。橿原神宮は、かつて神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされる地で、1890年明治天皇の命により創建されました。全てに於いて
スケールの大きい神社なので時間に余裕をもって、ゆったりと参拝したいところです。


いいキャッチコピーですね




広い!正月には初詣客でごった返しますが、
平日に行くととても贅沢な空間を堪能できます。




ちょうど「神武天皇御一代記御絵巻」展を開催していました(2016年の記録です)。神武天皇のことは詳しく知らなかったので、結構面白かったですよ。


橿原神宮から神武天皇御陵まで歩く途中、こんな案内版を見つけました。この辺りには橿原遺跡があり、縄文時代晩期〜飛鳥・奈良時代にかけての多くの遺構、遺物が発見されたそうです。


神武天皇御陵に到着しました。橿原神宮に掲示されていた地図で確認すると "すぐ近く"にみえましたが、徒歩で45分ほどかかりました。


簡素な風景ながら、目前に迫る畝傍山に圧倒されます。広大な敷地と畝傍山が醸し出す神々しい雰囲気が初代天皇にふさわしい荘厳な神域を感じさせてくれます。

神武天皇御陵を出て次は下ツ道の東側に向かいます。次に目指すのは本薬師寺跡。


この時期(9月中旬)に下ツ道ウォークを始めたのは、この景色を見たかったから。ホテイアオイの絨毯です。ここは本薬師寺跡。


本薬師寺は天武天皇が皇后の病気平癒のために建てたお寺で、当時は薬師寺と呼ばれていました。都が藤原京から平城京に移された時に、お寺も今の奈良市西ノ京に移されました。以後、薬師寺のあった場所は本薬師寺と呼ばれます。ホテイアオイは地元の畝傍北小学校の2年生が、毎年近所の農家さんと一緒に植え付けているそうです。


彼岸花とホテイアオイのコラボレーション。奥の見える茂みは本薬師寺の金堂跡。


塔跡にもホテイアオイ
ホテイアオイの向こうには畝傍山。奈良時代の文化人ならここで詩を詠むところでしょう。私も一句、と思いましたが・・、何も思い浮かばないので先を急ぎます。


本薬師寺の案内版




本薬師寺には駐車場が用意されています。周辺道路は道幅が狭いので路上駐車は絶対にやめましょう。では、下ツ道ウォークを再開します。


本薬師寺から下ツ道に戻ります


下ツ道跡の碑がありました


「下ツ道跡」の碑は、かしはら万葉ホールの近くです


ここで下ツ道は枝分かれします。歩道橋に登って上から進路を確かることにします。


歩道橋から北方面を見てみます。あらかじめ調べていた地図と、立ち並ぶ家々の雰囲気などからこの道を進むことにします。


暫く歩くと常夜灯が見えてきました。旧街道で間違いないでしょう。


この辺りはまっすぐな直線道路です。道は歩きやすいのですが、抜け道になっているのか自動車はよく通りました。


昔の街道らしい雰囲気がありますね
暫く歩くと八木札の辻に出ました。ここは、古代の東西官道と南北官道の交差点。古代奈良盆地には、東西に横断する横大路と南北に縦走する三本の幹線道路(上ッ道、中ッ道、下ッ道)がありました。その横大路と下ツ道が交差するのがここ。江戸時代中期以降、この界隈は伊勢参りや大峰山への参詣巡礼者などで賑わっていたそうです。


八木札の辻に建つ平田家(旧旅篭)は市指定文化財となり、「八木札の辻交流館」として新しい役目を担っています。月曜日が定休日です(この日は定休日でした)



はり新の定休日と一緒なので、なかなか中に入れない




八木札の辻の説明書きがありました。
八木の町は古代から官道が交わる交通の要所でした。

八木駅の近くには今井町があります。
いずれ、今井町についてもご紹介したいとおもいますが、今回は立ち寄らずに北を目指します。


更に北に進む予定でしたが、橿原で東へ西へとウロウロしたので些か疲れました。今回は笠縫で終わりとします。

次回は田原本を通過します!楽しみです。

2017年6月7日水曜日

はり新文庫

●店内廊下に本棚を置きました。名付けて「はり新文庫」、貸出はしておりませんので、お食事の前後に店内でお楽しみください。本の数は少しですが、観光ガイドブックの他に奈良に関する本も御用意しております。今回はその中から少し変わった3冊をご紹介させて頂きます。

 1冊目は『ぼく、ニホンオオカミになる!!』。奈良に関する本棚なのに何で??・・、と思われるかもしれませんが、実はニホンオオカミが最後に捕獲された場所が奈良県東吉野村なのです。この絵本は、ニホンオオカミが最後に捕獲されてから110周年となる2015年、ニホンオオカミと東吉野村を全国に知ってもらえるようにと、東吉野村でオオカミを題材とした手作り絵本コンクールが開催され、その最優秀賞作品として選ばれた絵本です。



 優しいタッチで描かれた絵と温かい気持ちになれるストーリーで、ニホンオオカミに対するイメージが変わりました。少し調べてみると、日本ではオオカミを「大神」とも書き、神のお使い(御眷属)と考えてきたそうですね。オオカミは鹿や猪から田畑を守り森を守ってくれると考え、それが『オオカミ信仰』となり、今でも一部地域では根強く残っているらしい。『オオカミ=悪者』のイメージは、グリム童話などの西洋文化の影響なのかもしれません。(厳密にはニホンオオカミはオオカミの亜種(別種との説もあり)として区別されるそうです)

 東吉野村では、今でもオオカミの遠吠えを聞いたとの話があり、ニホンオオカミは山のどこかにいると信じている人もいらっしゃるそうです。

裏表紙には、東吉野村にある
「ニホンオオカミのブロンズ像」も描かれています




 2冊目にご紹介するのは『平城京のごみ図鑑』。食事処なのに『・・ごみ図鑑』とは申し訳ない題名ですが、これが意外と面白い。発掘調査といえば瓦や土器、そして重要な連絡事項が記された木簡などが対象物と考えていましたが、ごみとして廃棄された木簡などにはメモ、イタズラ書き、愚痴などの記録が残されていて奈良時代の人々の生活が詳しく判るそうです。

「表紙の人物画は、木端に書かれたイタズラ書き?? 
役人が書類を作るふりをして、こっそりと落書きを
楽しんでいたものかも」と。



 この本は、2015年の夏に平城京跡資料館で開催された「平城京"ごみ"ずかん」の内容を踏まえ、書籍として再構成されたもの。出土品には装飾金具、似顔絵を描いた板、魚介類の骨、果物の種子、「鳥食入器」(鳥の餌入れ)と墨書きされた土器なども含まれます。奈良時代の生活が生々しく伝わってきそうな1冊です。


 3冊目は「奈良坊目拙解」。こちらは江戸時代中期、奈良の俳人であり地誌家であり外科医でもあった村井古道がまとめた「奈良坊目拙解」を、昭和52年に喜多野徳俊氏が訳されたものです。現在「奈良町」と呼ばれている旧市街を町別にひとつひとつ丁寧に解説されている大変貴重な本です。



例えば当店の近所に「芝突抜町」という通りがありますが、町の長老達はこの通りのことを「狐辻子」といいます。この本によると『こちらには先年甲冑縅工匠の家があって婦婢等が紡績をするが、一女が非常に顔を粧ったので、時の人が戯れて白狐と云った』とあり、それゆえ「狐辻子」と呼ばれるそうです。この本は本棚ではなく当店事務所に保管しておりますので、読んでみたいと思われる方はお声がけください。

 その他、はり新文庫には『別冊宝島 日本史再検証 蘇我氏とは何か』『別冊宝島 日本史再検証 持統天皇とは何か』『わかる!元興寺』『月刊 大和路ならら』などを御用意しております。今後はよりディープな奈良本を並べたいと考えております。



2017年6月1日木曜日

はり新の観光案内(玉置神社@十津川村)


奈良県十津川村の玉置神社をご存知でしょうか。玉置山に鎮座する玉置神社はネット上で『関西屈指のパワースポット』『最強のパワースポット』として有名です。こちらの神様は人を選ぶと言われ『生半可な気持ち(物見遊山)で神社に向かうと途中で道に迷う、通行止めにあう、車が故障する、そして神社に辿り着けない』との噂がある神社です。奈良県南端にある玉置神社へ一度行ってみたい!と思い、十津川村郷土食の勉強と森林浴を兼ねて玉置神社への参詣に向かいました。神社には到着できましたが、その他の噂をことごとく体験する結果となりました。
こちらは無事に辿り着いた玉置神社参道入り口で撮影した一枚。ここから本殿まで、約15分間林道を歩きます。途中で野生の鹿を見かけました。我々の気配を感じて崖を駆け上がり逃げ去りました。奈良公園の鹿に馴染んでいるので『全速力で鹿に逃げられた』のは生まれて初めての経験、少しショックでした。



玉置神社HPによると、玉置神社は大峰山脈の南端に位置する標高1,076m玉置山の山頂近くに鎮座し、紀元前37年第十代崇神天皇の御宇に王城火防鎮護と悪魔退散を目的に創建された歴史ある神社です。(「悪魔退散」を公式に謳う神社は珍しいのではないでしょうか。しかし、玉置神社に参詣すればそれも納得できる雰囲気でした)また、古くから熊野・大峰修験の行場のひとつとされ、平安時代には熊野三山の奥院と称せられ霊場として栄えてきたそうです。(駐車場番のオジサンには「ここには""で来なあかんな」と言われました。思いっきり物見遊山の雰囲気だったのかもしれませんね)
玉置神社駐車場。
未舗装の駐車場を想像していましたが、
意外と綺麗に整備されていました。
トイレも綺麗でしたよ。

 十津川村は日本一大きな村で村内に電車は通っておらず移動手段はバスがマイカーです。玉置神社は、その十津川村の南端に位置し奈良町から南に車で3時間半〜4時間、その七割が山腹の川沿いの道を走ります。吉野川(紀ノ川)を渡って暫くするとカーナビとiphoneナビが異なるルートを示し、カーナビに従ったところ、途中で道を見失いカーナビが黙ってしまう結果に。なんとか元の道に戻ると、そこから行けども行けども山と崖とトンネルが続きます。センターラインのない細く長く暗いトンネルの向こうからダンプカーの一団が迫ってくる圧迫感は冷や汗ものでした。(これでも昔に比べるとかなり道が良くなったそうですが)
 

駐車場から見えるのは美しい山々の姿
  途中で数カ所、大掛かりな道路工事が施されていました。十津川村では数年前の大水害の傷が癒えておらず、ダンプカーの往来が激しい一画がありました。


 3時間半かけてやっと辿り着いた玉置山に登る道は工事で通行止め。Uターンして別ルートから神社に向かうこととなりました。桜井の笠山荒神社など細い山道に慣れている私でも、玉置神社へ登る道には疲れました。苦労した分、到着した駐車場からの眺めは最高でした。


 玉置神社は、これだけ苦労してでも行く価値は十二分にあります。十津川の大自然の中に立つと日頃のストレスなどちっぽけに思えてきますね。観光気分で来たのは我々ぐらいで、皆さんパワースポットで何かを得ようとする真剣な表情で手を合わせているのが印象的でした。


 玉置神社に到着してから、神社内の様子は以下の写真でご紹介させていただきます。ただ・・、無事に参拝できた帰り道・・車のエンジントラブルでレッカー車のお世話になりました。十津川村の北端から奈良町まで70キロの道のりを牽引していただきました。やはり、生半可な気持ちで行ってはいけないのかもしれません。(でも、また機会を作って行きたいな)
駐車場から本殿への林道は途中で二つにわかれます。右手は階段の上り下りがあるコース、左は比較的平坦なコースらしい。我々は右手のルートへ。遠くでキツツキのドラミングの音が聞こえてきました。崖の下ではトンビが滑空中でした。

途中で山の神様が祀られていました。この崖上で野生の鹿を見かけました。


参道途中で見た神代杉。本殿横から神代杉の近くまで行く事が出来ます。
林道を15分ほど歩くと手水舎が見えてきました。石楠花が綺麗に咲いていました





本殿にお詣りする前に玉石社に向かいます
神社なのに釣鐘。こちらは梵字を刻んだ釣鐘で神仏混淆時代の名残ですね。

玉石社へは三柱神社を通り抜けます。摂社・三柱神社には倉稲魂神(うがのみたまのかみ)・天御柱神(あめのみはしらのかみ)・国御柱神(くにのみはしらのかみ)が祀られています。倉稲魂神は京都伏見稲荷大社で農業や商売繁盛の神様として、また天御柱神・国御柱神は奈良県生駒郡の龍田大社で風を司る神様として祀られています。こちらの神様は厄除けや心願成就の他、精神の病(ノイローゼなど)にも特別の霊験があるとされています。申し訳ありませんが、先に玉石社へ向かうため素通り・・。

社務所にて、こちらの御門は州浜紋、逆さミッキーですね
小心者の我々はこれを見て落ち着かなくなりました。
もう山頂まで登る気などさらさらありません。
階段状になった山道を登ると末社・玉石社へ。大峰修験道では玉石社を聖地と崇め、本殿より先に参拝するとか。我々もそれに従い、最初に玉石社へお詣りしました。社殿はなく御神木に囲われた玉石に礼拝する古代の信仰様式を残しています。山道の一画に祀られていて、適正な表現が思い浮かばないのですが、なんとも例えようのない独特の雰囲気でした。


玉石社から山頂方面を望みます。熊が出ないうちにさっさと本殿に戻ります
(奈良公園で出会うことのない動物は苦手です)

改めて三柱神社へ参拝






新緑越しの柔らかな光に照らし出される狛犬。
標高1000メートルの神社には爽やかな風が吹いていました。
正面に戻り、いよいよご本殿へ。本社御祭神は国常立尊(くにとこたちのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)。本殿は決して新しくはないのですがみずみずしい新緑を背景にさんさんと降り注ぐ日の光を浴びて建物が輝いて写ります。
本殿横から巨樹林へ向かいます。杉の木の足元には玉石がまかれていました。
樹齢三千年の神代杉。永らく聖域として伐採が禁じられてきたため、温暖多雨の気候と土壌に恵まれ、この一帯は巨樹林となっています。
夫婦杉、二つの巨幹が根元でひとつになった木を夫婦杉と言うことが多いようですが、こちらもその一つ。
樹高25m、幹周8m
無事に参拝できて機嫌良く帰り道を走っていたのですが・・。エンジントラブルで最後は生まれて初めてレッカー車のお世話になりながら奈良に戻りました。ちなみに玉置神社は携帯の電波は入りません。帰り道の山中も電波が入ったり入らなかったり。携帯圏外の山中で車が止まって
しまったらと思うと怖いですね。










社務所前にあった神社案内図。実際は、かなりの高低差があります。歩きやすい靴をお勧めします。
十津川村は険しい山に囲まれた地形ゆえに特有の文化を育んで来ました(例えば、話し言葉のイントネーションは標準語です)。食文化についても同じで、奈良県北部とは異なる郷土食があるのですが、レッカーされた状態ではどちらにも立ち寄れず。玉置神社駐車場で購入した「めはり寿司」が唯一のお土産でした。写真上段は『目をむく(目をはる)おいしさ』→めはり寿司。写真下段は神社駐車場から撮影したパノラマ写真です。