2018年6月30日土曜日

はり新の観光案内(屋根裏探検@世界遺産元興寺)

●世界遺産元興寺の国宝禅室 屋根裏探検に行ってきました。ヘルメットを被り懐中電灯を持って屋根裏に登り、約1300年前から国宝を支え続ける建材に触れることのできる貴重な体験ができました。


"探検"という言葉が遊び心をくすぐります。
しかも、探検するのは"国宝"の屋根裏です!
●日本で最初に建てられた本格的仏教寺院は飛鳥時代(1300年前)の法興寺といわれます(蘇我馬子の発願)。都が藤原京から平城京に移る際、法興寺伽藍の一部は今の奈良町に移築されて元興寺と呼ばれるようになりました。奈良時代の元興寺は東大寺に次ぐ寺域と伽藍を持ちましたが、平安期以降は急速に勢力を弱めていったそうです。

 世界遺産に登録されているその元興寺は「なにが凄いの?」って聞かれることがありますが、何より素晴らしところは日本で最初に建てられたお寺(1300年前)であって、その建材を今でも一部分で使用している事ではないでしょうか。

 1300年前の建築部材を博物館のガラス越しにみることはあっても、実際に建物に使われている(現役で働いている)ことには驚きます。今回はその建材を自分の目で直接観たり触れたりする事の出来る数少ない機会です!


この催しは予約優先となります。予め元興寺さんのサイトでご確認の上、観光センター(0742-22-3900)で予約されるのが良いと思います。私も10日前には予約しておきました。当日、まずは元興寺北門前に来ました。案内版を見てみます。さすが世界遺産、国宝重文がたくさんありますね。今回の特別公開は国宝の禅室。では入り口のある東門に移動します。
北側から東門への通路には紫陽花の花が並んでいます
よく手入れされているようで、とても綺麗でしたよ
こちらは東門、この東門は東大寺西南院の門を応永18年(1411)に移築したものらしい。

拝観料を払い、境内に進みます。まず正面に本堂があります。曼荼羅堂とも呼ばれる極楽坊本堂は寄棟造で妻入という珍しい建物。素朴で美しい、大好きな御堂です。こちらのご本尊は智光曼荼羅です。
本堂を拝観の後、建物の南側に廻ってみます
桔梗が綺麗に咲いていました
 
小鬼さん、今日もこちらにいらっしゃいました


本堂の南側をずーっと進むと「眺処」の案内標識がありました。本堂と禅室の一部分には1300年前に焼かれた瓦が使われていて、この場所からそれらを見ることが出来ます。日本で最初に焼かれた瓦が含まれているかもしれません。現代の瓦は寿命が50~100年と言われるので、そのスケールに驚かされます。昨夏はハシゴを登って、この屋根瓦を間近で見ることが出来ました。

「眺処」から見えた本堂(右)と禅室(左)の屋根です
今日、探検するのは禅室(左)の屋根裏
1300年前から数回にわたり屋根瓦も修理されています。各年代において一部は新しい瓦に交換されてきました。各年代において瓦の焼成温度などが異なるため瓦の色は数種類見受けられます。そのため元興寺の屋根瓦はモザイク柄に見えます。

禅室(国宝)を南側から撮影しました。
元興寺僧坊の姿を伝える貴重な建物、鎌倉時代に改装
当時の最新様式だった大仏様(だいぶつよう)を巧みに使用。切妻造、本瓦葺き。



さて、予約時間になったので受付に進みます


受付は本堂と禅室の間にあるのかな?
だれも居ません。ここは風の通り道になっていて涼しくて気持ち良い。受付は禅室の中でした。禅室内は通常は非公開です。
禅室内で受付を済ませ、簡単なガイダンスを聞いてからヘルメットと懐中電灯を装備して仮設階段で屋根裏へ!見学は最大10人までを1グループとして30分ごとに区切られます。今回は11時スタートのグループに参加させていただきました。参加者は7人。
屋根裏に登って上をみると棟札がありました
みんなこんな格好で探検します
荷物はできるだけ禅室内に置いてきた方がいいと思います
結構、狭〜いところを通ったりするので

大梁。721年 約1300年前ですよね。
それは立派な梁です。
少し建築部材の予習をしてきて良かったと思いました(予習といっても建築部材名とその役割だけネットで調べただけですが)。ボランティアガイドさんの説明では「大型木造建築は200~300年ごとに解体修理を繰り返すことにより建物を長く維持することが可能。禅室は奈良時代や平安時代、鎌倉時代、そして昭和と様々な時代に修繕や改築を施されてきたので各時代の部材と技法が入り交じりながら今日まで受け継がれてきたことが解る」

修理に携わった職人たちが、
ちょっと遊び心で描いた"鶴"が残されています


屋外で使用されていたと考えられる木材が、過去の解体修理の際に屋根裏に転用されと考えられるもの。風雨にさらされて劣化した面と、その反対側の違いを手で触れて確かめることが出きます。              
木材の切り出された年代は年輪年代法で特定されます。年輪年代法とは年輪の成長が毎年異なることに着目し、それを計測して基礎データと比較することで、年輪1本1本に絶対年代を与えるという手法。檜、杉、高野槙ではデータが蓄積されて、かなり精度の高い年代特定が可能の様です。ただし、樹皮の部分が残されていない場合は(○○年以降)という範囲での年代特定となります。
表面を調整するため釿(ちょうな)で削った跡が残ります
1グループ10人以下の小グループなので、ガイドさんにいろんな疑問を聞いて見ることも出来ます。

見学通路の脇には今は使われていない部材が仮置きされています。これらも1300年前に造られたもので立派な文化財、とても貴重なものの様です。
拝観料とは別に1000円必要ですが
見学内容を詳しく説明したパンフレットを頂きました

予定通り30分間の探検でした。屋根裏から出たら元興寺の境内(浮図田)は眩しかった。元興寺は堅実な社風(寺風?)が受け継がれて、素晴らしい文化財研究をされていると思います。改めて良いお寺だと思いました。


●ナカニシヤ出版「わかる!元興寺 元興寺公式ガイドブック」を参考にさせていただきました。元興寺国宝禅室 屋根裏探検(夏)は7月16日(月)までです。


2018年6月27日水曜日

はり新の観光案内(風の神宿る 龍田大社@三郷町)

●廣瀬大社と共に平城京の裏鬼門を護る龍田大社にお詣りして来ました。"水の神"を祀る廣瀬大社に対して龍田大社で祀るのは"風の神"。スキージャンプの高梨沙羅選手がオリンピック前にお詣りした神社としても有名です。


●JR大和路線三郷駅から徒歩10分、信貴山の東麓・竜田に龍田大社は鎮座します。そこは奈良盆地と大阪平野を隔てる天然の要害(生駒金剛山地)の唯一の切れ目(谷)、山に吹き付ける風はこの谷間をすり抜けようとします。まさに風の流れを司るような場所です。

 その昔、大和川を舟で遡る場合、流れが急な亀の瀬の難所では一度荷物を下ろし、徒歩か馬で峠を越え(竜田越え)て再び舟を使ったそうです。日本書紀の中でも神武東征の折、竜田を越えて大和へ入ろうと試みたものの山道が狭く険しいので引き返したと記されているそうです。

 この龍田大社、毎年7月第1日曜日に執り行われる「風鎮大祭」が有名です。静かな行事の多い奈良の中ではとても迫力のあるお祭です。


風鎮大祭の模様
〈写真提供元 (株)奈良町情報館〉


 龍田大社のHPを拝見するとトップページ『風神 龍田大社』とかかれたロゴ近くに紅葉の図柄があります。この辺りは秋には紅葉の名所として有名で、近くを流れる竜田川に映える紅葉を模したお料理は「竜田揚」の名で広く知られています。
神社まで最寄り駅「三郷駅」から龍田古道に沿って歩きます。(龍田古道の案内版にも紅葉が描かれています)龍田古道は奈良時代に平城京と河内難波を結ぶ街道として重宝され、天皇行幸や遣唐使が大和に入る玄関口として利用された道と言われます。万葉集でも多くの歌人が龍田道でたくさんの歌を残していることから心情的にも重要な道であったと考えられるそうです。

三郷駅から約10分、少し急勾配の坂を登ると
神社正面に着きます


今から約2千年前 崇神天皇の御代、飢饉や疫病で人々が苦しんでいると"龍田山に天御柱命・国御柱命の二柱を祀れ"とのお告げがあり、この時に創建されたのが龍田大社だそうです。近くの三室山には「龍田神社本宮跡伝」と刻まれた石碑が建ちます。

鳥居をくぐり境内に入ります
拝殿まで特に長い参道ではありませんが、綺麗に手入れされているので広く感じます

個性的な表情の狛犬さん
拝殿が見えてきました
この日は拝殿越しに柔らかな風が吹いてきます

巻き付く縄が龍のように見えます


昇り龍を連想させますね


拝殿の左手には末社が並びます

龍田恵比須神社、白龍神社、三室稲荷神社

"風の神"のイメージが強いからでしょうか。
絶えず本殿からこちらに向けて心地よい風が吹いていた気がします。
桜の季節に行くと鳥居横の立派な桜に圧倒されます

●竜田には(紅葉をみるために)秋に行くことが多かったのですが、今回初めて4月と5月に訪れることができました。新緑が綺麗で竜田古道には古代ロマンを感じさせる話がたくさんあり、とても魅力的なところでした。龍田大社も綺麗で絶えず心地よい風が吹く気持ち良い神社でした。龍田大社を起点として竜田古道を歩いてみたいと思いました。
  
 なお、斑鳩町には龍田"神社"があるので龍田大社と龍田神社の関係を神職さんに聞いてみました。龍田神社は聖徳太子が法隆寺建立にあたり竣工の安全を祈り、龍田大社に日参された後に法隆寺の守り神として御分霊をお祀りした事が起源のようです。機会を作って龍田神社にもお参りしてみたいと思います。

★ 本ブログの作成には、奈良町情報館さん、針テラス情報館さん  にご協力いただきました。ありがとうございました。

2018年6月19日火曜日

はり新の観光案内(古道・中ッ道を歩く)

●「かみつみち弁当」の「かみつみち」とは大和の古道・上ッ道のことで古代〜近代まで政治軍事、そして産業発展のうえで大変重要な街道でした。上ッ道の少し東にはハイキングコースで有名な山辺の道、少し西には中ッ道がありました。上ッ道、山辺の道は何度か歩いたことがあるので、今回は中ッ道を歩いてみることにしました。
中ッ道 ≒ 橘街道 と考えて橘寺から北に向けてスタート

●今から約1400年前、古代の奈良盆地には南北に上ッ道(かみつみち)、中ッ道、下ッ道の大和三道が走っていました(大和三道 → 奈良文化財研究所「なぶんけんブログ」参照してください) 大和三道は各々の間が四里(約2.1キロ)〈古代の一里は約530m〉の等間隔で平行に敷設されていたそうです。

 これらの街道は都が奈良を離れると急速に荒廃していったそうですが、中世には再整備され上ッ道は上街道、下ッ道は中街道、そして中ッ道は橘街道と呼ばれるようになったそうです(ややこしい、中ッ道→中街道 ではないの?)上街道は京の都から初瀬詣、伊勢詣への巡礼街道として大変重宝されたそうです。一方、壬申の乱では激しい戦場となった中ッ道ですが、中世以降は吉野詣の道として栄え、その途中で橘寺を通ることから橘街道とも呼ばれました。今回は中ッ道 ≒ 橘街道 と考えて橘寺をスタート地点として北を目指すことにしました。橘寺は明日香村ののどかな田園風景の中に建つ古寺で、聖徳太子誕生の地といわれます。

 


橘寺へは橿原神宮前駅からバスで移動。川原バス停で降りて少し坂を登ると橘寺があります。坂の途中で振り返って北の方角を見てみます。正面奥に見えるの小さな山が大和三山のひとつ「天香具山」。ゴールの平城京跡はここから約20キロ先。道中、昔を偲ぶことのできる石碑などを見つけられるかワクワクするスタートです。





橘寺前をスタートしました。すぐ北隣には川原寺跡があります。飛鳥四大寺に数えられた川原寺跡の脇道を進むと板蓋神社がありました。 
大好きな明日香村ののどかな風景


橘寺を出て15分ほどで甘樫丘の麓を通過




さらに1時間ほど歩くと明日香村を抜けて橿原市へ。
耳成山の横を通過、その先にあるJA「まほろばキッチン」で休憩しました。橘寺からここまで約7キロ。
昼食は「まほろばキッチン」で買った柿の葉寿司と葛餅
嗚呼 "The 奈良メシ"






20分休憩の後、まほろばキッチンを出発
しばらく北に進むと"横大路"を横断します
横大路は奈良盆地を東西方向に走る古道。堺と奈良を結ぶ竹内街道と接し、東に進むと伊勢街道に繫がります。藤原京の北端付近を東西に走る街道です。


出発した橘寺周辺とはすっかり風景が変わりました。北に北にと気持ちが先走り、うっかり竹田神社を通り過ぎてしまいました。


田原本まで進みました。この辺りでは街道の痕跡を見つけるのは難しく、中ッ道は田畑に変わっています。拡がる田畑の中に木々が鬱蒼と茂る一帯を見つけたので近付いてみると村屋神社がありました。一度、訪れてみたかった神社で正しく村屋坐弥冨都比売神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)。大物主と三穂津姫の夫婦神を祀ることから大神神社の別宮とも称されています。橘寺からここまで2時間、約10キロ。




山邊御縣神社に到着。こちらは大和国にある六ヶ所の御県(ミアガタ)の守護神として設けられた御県坐神社の一社。延喜式神名帳に『大和国山辺郡 山辺御県坐神社(大 月次/新嘗))』とある式内社ですが、論社(後継候補社)として二社があるそうで、こちらはそのひとつ。案内板には寛弘4年(1007)関白藤原道長が吉野金峯山詣での途中、ここで宿泊になり、かつては社勢も盛んであった」とあります。境内の観音堂には十一面観音像(重要文化財)が祀られています。
 橘寺からここまで約3時間、14キロ。

郡山、丹波市とあります
この辺りは自動車の往来が激しく写真を撮るのも大変です

中ッ道沿いに橘の木を植え、香り溢れる道にしていこうという「橘街道プロジェクト」により植樹された橘の木がありました。

橘の木は街道沿い5カ所に約200本植えられているそうです。橘は日本の固有種で古事記や日本書紀において永遠の命をもたらす霊薬が橘ではないかとの説もあるようです。


世阿弥作「井筒」に登場する在原業平ゆかりの井戸。たしか、法隆寺の近くにも「業平ゆかりの井戸」がありましたね。陽が西に傾き始めました。まほろばキッチンを出発してから休憩できる場所がなかったので、少し疲れました。橘寺からここまで4時間半、約20キロです。

今市のシャープ近くにある石碑
「右 高野山 左 なら道」でしょうか 
橘寺からここまで約5時間弱、21キロでした
 
 この後、県道754号線を渡り中ッ道の痕跡を探してみましたが面影を見つけることはできませんでした。
 上ッ道や下ッ道に比べて中ッ道は抜け道になっている部分が非常に多く、歩道のない部分も多くありウォーキングに適しているとは言い難い道でした。