2017年7月29日土曜日

はり新の観光案内(かつて九重塔が建っていた吉備池廃寺跡)

●桜井市にある国史跡「吉備池廃寺跡」に行ってきました。現在は農業用溜池となっていますが、かつては九重塔がそびえる大寺院「百済大寺」があったと考えられている場所です。

●吉備池廃寺跡は桜井市吉備にあり、そこは上ッ道の西側、安倍文殊院の近くに位置します。国道165号線の南側ですが建物に隠れて道路からは見えません。

 以前からこの地では古い瓦が多量に見つかっていたので何かあると思われていましたが、1997年の調査によりこの場所に飛鳥時代の大寺が存在したことが確認されました。しかも、その建物の大きさは同時代の寺院に比べて圧倒的に大きいため、幻の百済大寺の可能性が高いそうです(百済大寺と断定する情報は見つかっていないため現段階では「吉備池廃寺」名称で国史跡に指定されています)

 日本史上最初の官寺として建てられた百済大寺(舒明天皇が639年に造営を開始)は、場所と名称を変えながら最後は「大安寺」として平城京の外京に移設されました。現在の大安寺には次のような案内版があります。
南都七大寺に数えられた大安寺は斑鳩の熊擬精舎が、百済大寺、高市大寺、大官大寺、大安寺と遷寺して来たと書かれています。どの時代においても国家の威信を誇示するため巨大な伽藍を有するのが特徴でした。

国史跡には指定されていますが、決して観光地では
ないようです。特に真夏の吉備池周辺は雑草が生い茂り、近付くことが困難でした。

吉備池北側から南東方面を見たところ。
木の生い茂っているところに金堂の基壇があるそうです。

吉備池の南西方面に廻りました。蒲の穂の向こうに
見える茂みにも基壇があるそうです。

見つかった塔基壇は一辺約30メートル(法隆寺五重塔
の2倍)もあり、高さ100m近い九重塔が建っていた
とも考える専門家もいます。約120年後、東大寺に建てられた塔と同等以上の高さです。この草っ原に高さ100mの九重塔が建つ姿を見てみたいです。


 日本史上希に見る巨塔がここに建っていたとは信じられない程、のどかな場所です。かつての華やかさと、現代ののどかさ、そのギャップが奈良らしく素晴らしい。いずれ此の地に百済大寺が建っていたことを確定できると良いですね。

はり新の観光案内(古代の街道 下ツ道を歩く その3)

●下ツ道を歩く第3回目の記録です。これまでのんびりと歩いて来た下ツ道ですが、今回は結崎駅から北上、羅城門跡を通りゴールの朱雀門まで歩きました。

歩いた日は、今にも雨が降りそうなどんより曇った6月らしい天気でした。湿気を含んだ空気が身体にまとわりつく蒸し暑さ。今日のスタート地点は近鉄結崎駅です。この近辺で採れる青ネギは大和伝統野菜「結崎ねぶか」として
有名。飛鳥鍋に入れると柔らかくて堪らなく美味しい。

結崎ねぶか」の他にもいろんなセールスポイントがある川西町。また、あらためて散策したいと思います。

結崎駅から15分ほど歩いて、前回中断した場所に
戻りました。さて下ツ道を北上します。

こんな案内版がありました。奈良県民なら小学校で必ず学習する「吉野川分水」の水がここまで来ています。「吉野川分水」は奈良県のHPにも掲載されていて、吉野川(紀ノ川)から取水した水で奈良盆地の農地を潤した壮大なプロジェクトでした。奈良県HPへ

さて、この北側が二階堂エリアです

二階堂では下ツ道の左右に風情る建物が並びます。
抜け道になっているのか車の通行が非常に多くて写真を撮り損ないました。

田原本町のものとは趣の異なる虫籠窓
二階堂の北側で高速道路工事のため下ツ道は迂回を
強いられます





高速道路の工事箇所を迂回したすぐ北側には菅田神社の
鳥居がありました

言い伝えにある「嫁取り橋」を通りました。板切れに「嫁取り橋」と書いて貼り付けてあります。一時的な事でしょうか。少し残念な表示です。

下ツ道は急に狭くなります。自動車は通れません。急に道が細くなるのは、その先で私有地に入ったり行き止まりになる可能性が高いパターンです。この道で正しいのか心配で周囲を見ながらの前進です。

中央卸売市場近くにある番条環濠集落に立ち寄りました

番条の環濠集落の北側には稗田の環濠集落があります。
古事記編纂に携わった稗田阿礼がこの地の生まれだとも言われます。

古事記編纂に携わった稗田阿礼を祀った売太神社。
一度聞いた話は決して忘れない、と言われた稗田阿礼に因み学問の神様として信仰を集めています。

稗田の環濠集落の西側

 稗田の環濠集落の少し北側には大和郡山駅があります。駅西側には日本三大稲荷のひとつに数えられる「源九郎稲荷神社」さんがあるので立ち寄りました。三大稲荷には幾通りかの組み合わせがあるそうです(伏見稲荷大社はかならず含まれるそうです)。

源九郎稲荷神社の辺りも素晴らしい木造建築物が
残ります。凄いですねぇ、3階建てです。
大和郡山駅の北側、佐保川には「らじょうもんはし」があります。平城京の羅城門があった場所です。
奈良時代ここには平城京のメインストリート「朱雀大路」がありました。ここ(羅城門)から4キロ北にある朱雀門と大極殿がみえるはずです。


肉眼ではよく見えません。デジカメの望遠を使うと(木が茂って見えづらいですが)朱雀門と大極殿が重なって見えますね。ちなみに朱雀門手前に見えるのが近鉄奈良線の架線です。

羅城門跡の説明書きがあると聞いたので探してみました。橋脚の足元、少し寂しい場所に何か書いてありますね。アレでしょうか・・?

やはり羅生門跡をしめす碑でした

現在、朱雀大路は失われ羅城門跡も説明書きがあるだけです。ここから北側は道路整備や都市開発の影響で下ツ道の痕跡を見つけるのは難しいようです。少し西側にある県道9号線(唐招提寺や薬師寺の東側を通るルート)で北上します。

県道9号線は平城旧跡の西端に繋がるので、大宮通を東に歩き朱雀門に到着しました。羅城門跡を出てすぐにカメラのバッテリーが切れてしまったので、ゴールの朱雀門は先日撮影したものを載せておきます。

下ツ道沿いには大きな古墳や環濠集落、羅城門跡、薬師寺や唐招提寺があり、時代変化に富んだウォーキングとなりました。今回のウォーキングコースは「歩く・なら」のサイトにも詳しく解説されています。

2017年7月21日金曜日

はり新の観光案内(特別公開;東大寺の大湯屋)

●東大寺で初公開の大湯屋と鉄湯船を拝見してきました。鎌倉時代の東大寺再建に一役買った施設のようです。こんな建物があるとは全く知らなかったのですが、ボランティアさんの丁寧な説明を聞きながら当時の情景を思い浮かべることが出来ました。

●現在、東大寺ではJR西日本キャンペーン「ちょこっと関西歴史たび」として重要文化財「大湯屋」が公開されています。大湯屋には、俊乗房・重源の命で鋳物師の草部是助が建久8年に作った大きな鉄製の湯船(重要文化財)が据えられています。

 南都焼き討ちで大打撃をうけた東大寺、鎌倉時代にその再建を支えた人々がサウナのように利用したと考えられているそうです。しかし、そもそも湯屋には"みそぎ"として"身を浄める"場として大切な役目もありました。

 大湯屋の公開は今回が初めての事で、次はいつ公開されるのか全く未定とのこと。ボランティアさんの説明がとても丁寧なので、当時の様子を想像することが出来ました。(同時に重源上人の坐像(国宝)も7月31日まで特別に公開)
こちらが重要文化財の鉄湯船(鎌倉時代)
実際は写真で見るよりもっと重量感があります
表面は腐食がすすんでいるように見えますが、約900年前に作られた鉄湯船です。この程度の腐食で留めているのは大切に大切に扱われてきたのではないでしょうか。
1197年に作られた鉄湯船は直径230cm、
高さ73cm、重さ1690キロ、容量は2キロリットル。現代の一般的なバケツで250杯の水が入る計算になります。
鉄湯船は唐破風で装飾された風呂屋形に納められています
肉眼ではほとんど見えませんが、表面には
銘がきざまれているそうです
現在は井桁の上に乗せられていますが、本来は土間に掘り込んだ穴に埋め込まれていたそうです。底には排水のための穴があるそうですが、大湯屋の下にはどんな下水設備があるのか質問してみましたが判らないようでした。
木壁一枚隔てた別室でお湯を沸かして運んだらしいです。こちらで薪を燃やして沸かした湯を桶で運んだのでしょうか。


大湯屋は鐘楼の北側、階段を下ったところにあります  
公開は7月31日まで。俊乗堂での解説がとても面白くてとても勉強になりました。重源さんのイメージが全く変わりました。(どう変わったのかここでは記しませんが・・、それぐらいの大胆な人物でないと東大寺復興は果たせなかったと思いました)

大湯屋を横から見ると意外と奥行きがあります
 湯船で水を湧かす必要がないのなら鉄で作る必要はないのにどうして鉄湯船なんだろう。疑問だったので調べてみると、鉄製の風呂(五右衛門風呂など)は鉄に蓄えられた熱のために冷えにくいのが特徴らしいです。また、使いこんでいくと酸化皮膜が鉄を保護してくれてサビを抑制してくれるそうです。



2017年7月7日金曜日

はり新の観光案内(古代の街道 下ツ道を歩く その2)

●下ツ道を歩く第2回目 梅雨入り直後の青空の下、笠縫駅から北を目指した記録です。今回はあまり時間がなかったので笠縫駅から近鉄線3駅分ほど北上の予定、出来たら途中で唐古鍵遺跡(弥生時代の環濠集落遺跡)に立ち寄りたい。

空は真っ青、街道ウォークには最高の天候。笠縫駅から歩き始めて川沿いの道を北にすすみます。振り返ると標識に下ツ道」の文字。今から思えば下ツ道は北上するのでなく南下して橿原神宮をゴールにすればよかったと思いました。「あと何km」って表記が「もうすぐゴール」って気分を盛り立ててくれそう。

下ツ道は中世に整備され、それ以降は「中街道」と呼ばれるようになります。もうすぐ田原本。

田原本エリアに入ります。下ツ道は都市整備などで道が分断されたり移設された部分が多く道に迷う区間が数多くありますが、八木〜田原本間では道が直線的な上、「下ツ道」の表記が数多くあるので何の心配もなくズンズン先に進めます。

田原本の中心部に入りました。昔の幹線道路沿いらしい立派な建物が並びます。空は真っ青ですが梅雨の最中なのでかなり蒸し暑く感じます、早速ペースダウンです。

南北にまっすぐ伸びる道。下ツ道の道幅は全体的にこんな感じです。上ッ道もそうでしたが、下ツ道沿いにコンビニはほとんどありません。笠縫駅で買ったスポーツドリンクをチビチビと大切に飲みながら歩きます。


虫籠窓が良い雰囲気を出しています。鍾馗さんがいらっしゃいます。田原本には立派な建物が多い。良い街並みです。

何年前に建てられて、どんな商売をされてきたのか、
どんな歴史があるのか・・、等々。気になります。




近年造り替えられた石碑のようです


常夜灯があるのでこのまま北上したいのですが、
進んでみるとどうも違う。
左右の道を探してみると一本東側の道が下ツ道らしい。

所々、電柱には下ツ道標識があります。
「←平城京 藤原京→」
大ざっぱな道案内が嬉しい

軒が大きく波打ってますね。
古い建物は維持にお金と手間がかかります。この辺りで一度休憩したいと思いましたが、唐古鍵遺跡でゆっくり休みたいのでこのまま北上を続けます。

この辺りの道路には「唐古鍵遺跡」のマークが埋め込まれています。唐古鍵遺跡は、平成11年に国の史跡に指定された弥生時代の環濠集落遺跡です。楼閣がランドマーク。


田原本町役場近くの標識で現在地を確認します。ここから東に向かえば唐古鍵遺跡ミュージアムがありますが、今日(月曜日)は定休日なので、もう少し北側にある遺跡を目指します。


鏡作坐天照神社さんに鳥居前からご挨拶。古くから鏡鋳造の神として信仰を受けてきた鏡作神社、現在も美の神として美容師さんや鏡業界関係者の参拝が多いらしい。

安養寺がありました。こちらに客仏として安置されているのが仏師・快慶作の阿弥陀如来立像。「こぢんまりしたお寺にとんでもなく素晴らしい仏様がいらっしゃる」のも奈良らしいところ。この安養寺の先で下ツ道は寺川の西から東に移ります。


安養寺の北側で下ツ道を離れ、東に15分歩くと唐古・鍵遺跡に到着です。現在ここは再開発事業の真っ最中。ここで休憩しながらぼーっツと弥生時代に想いをはせる予定でしたが、工事用車両が出入りして今はそれどころじゃありません。気を取り直して、少し残してたスポーツドリンクを一気に流し込んで池をグルッと回ってみます。

池の南西部には復元された立派な楼閣が。予想以上に大きく立派な建物でした。クルクルっと巻かれた飾りが印象的。面白い建物なのでじーっと見ていたら沢山の蚊が寄ってきました、池の畔のせいか蚊が多い。弥生時代の人々は蚊をどうしたのでしょうか。


鏡作神社のことを書いてますね

史跡公園としての完成がたのしみです



田原本は肥沃な土地に恵まれたため、古くから大きな集落が形成され人々の社会生活が始まりました。その肥沃な土質はいまでも変わらず、現代でも大和伝統野菜「味間芋」などの美味しい野菜が生産されています。今日は時間がないので、下ツ道ウォークはここまでにします。次回は一気にゴールの朱雀門を目指します。