●日本で最初に建てられた本格的仏教寺院は飛鳥にあった法興寺と言われます。今から約1300年前、その法興寺を奈良に移したものが「元興寺」で、現在は世界遺産として登録されています。
奈良時代には東大寺に次ぐ寺勢を誇った元興寺ですが、都が奈良を離れると徐々に衰退、中世以降は浄土信仰や地蔵信仰など庶民信仰の場として大切にされていました。しかし、その後の一揆や落雷などにより伽藍が失われていくにつれ更に衰退が進み、昭和初期には無住の荒れ寺になっていたそうです。
1943年、辻村泰圓氏により元興寺の整備復興が始まると極楽堂と禅室から約10万点にも及ぶ仏教民俗資料が発見されました。それらを調査・整理するために設立されたのが現在の「元興寺文化財研究所」、説明を聞くまで私も知りませんでしたが、"民間唯一"の文化財研究機関だそうです。
1時間半の見学会でしたが、時間が経つのを忘れるほど内容の濃いものでした。ただ、写真撮影などには規制があるためブログなどのネット上でご紹介できる内容には限りがあることが残念です。(以下、見学会の概要のみのご紹介となります。チャンスがあれば是非、見学会に参加される事をおすすめします)見学会のお問い合わせは→元興寺 公式サイトへ でご確認下さい。
地図で場所を確認しておきます。地図の左上にはJR京終駅、地図の中央を縦に走る街道が上ッ道(上街道)、ここから北に15分ほど歩けば当店(はり新)があります。その上ッ道の南に元興寺文化財研究所があります。 |
研究所のある場所は"肘塚"と書いて"かいのづか"と呼びます。難読解な地名です。奈良時代の僧侶玄昉の伝説に因んだ地名です。 |
研究所のある場所は約20年前までテイチク本社工場のあったところ。当時テイチクに勤めていた人に聞くと、石原裕次郎氏や八代亜紀氏など昭和を代表する音楽家が多数、こちらの本社に出入りして、とても華やかな場所だったそうです。 |
展示されていた航空写真を見ると、この肘塚のすぐ北には若草山をはじめとする春日山系の山々、原始林が拡がりるのがわかります。 |
昔の地図が展示してありました。現在の奈良女子大の場所には奈良奉行所、その南側に興福寺、さらにその南側に元興寺があります。その辺りから南に伸びる道が上街道(上ッ道)で、道を南下した先に研究所のある肘塚があるのが判ります。 |
当店を出て上ッ道を南下します。約15分あるけば肘塚到着。研究所に入ってすぐ左の建物に入ります。 |
「ルーパ館」と書いてありますね サンスクリット語で「形ある物」という意味だそうです |
ルーパ館1Fの部屋に入って受付を済ませます。この室内には数種の展示物とガラス越しに分析機器が並びます。実際に職員さんが作業されていました。 |
こちらの分析室は撮影可能なので一通りカメラに収めました。この部屋以外は、写真撮影はできますがSNS等への投稿は禁止されています。研究対象物の大部分が預かり物で、所有権が元文研にはないので勝手に写真をネットに上げてもらっては問題になるそうです。撮影できたのはまず、電子顕微鏡(エックス線分析ができるEMAXが付いています)。 |
SEM-EMAX の隣にもエックス線分析装置が並んでいます。左側が粉末X線回折装置(XD)、右側が蛍光X線分析装置(XRF)。これらの組み合わせにより無機化合物の同定と定量が可能。壁画の彩色(顔料成分)の分析などにも役立ちます。 |
こちらは置換材のサンプル。地中から発掘された木製品はそのまま置いておくと乾燥が進み、変形や割れてしまう危険性があります。それを防ぐのに木製品中の水分を合成樹脂等で置換する方法はとても有効だそうです。どの置換剤を使ってどのような条件で処置していくのか、研究施設の腕の見せ所。 |
建物の屋上にて周囲を説明していただきました こちらは北側の風景。興福寺五重塔や奈良県庁、ならまちが見えました。 |
こちらは南西方面。生駒山系、矢田丘陵、二上山、葛城金剛山系が見えます。 |
研究所の研究成果を簡単にまとめた物が展示されていました。巨石運搬用の橇(修羅)をPEG含浸法による保存に成功したことなど、数々の実績が判りやすく書き記されています。元興寺文化財研究所のHPと対比してみるとさらに良くわかります。→元興寺文化財研究所HP「沿革」へ |
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