2017年11月22日水曜日

はり新の観光案内(大和の古道・横大路を歩く)

●当店「かみつみち弁当」の「かみつみち」とは古道「上ッ道」のことです。壬申の乱(672年)が起こったとき、上ッ道は既に官道として存在し、中世以降は上街道として京の都から初瀬、伊勢詣に向かう人々で大層賑わったそうです。奈良町近辺の旅篭に泊まり、早朝お弁当を持ってたくさんの旅人が出立する光景が見られたのではないでしょうか。(当時の人にとってお伊勢参りは、現代のディズニーリゾートとUSJを足した以上の憧れだったそうです)
残念ながら全国的には知られていない横大路ですが
桜井では横大路を観光資源としてPRしているようです

 一方、大阪からお伊勢さんに行くには暗峠から猿沢池を経由し上ッ道(街道)を南下するルート以外に、竹内街道から奈良盆地を東西に走る横大路を歩いたとも考えられます。そこで、今回はその横大路の一部(下ツ道と上ッ道の間約4km)を歩いてみました。
古代奈良盆地の街道図です
平城京の北に京の都、図の左側(西側)に大阪、
図の右側(東側)にお伊勢さんがあります

●横大路は難波宮と飛鳥宮を繋ぐ道で日本最古の官道(国道)とも言われます。古代の大陸文化は、瀬戸内海から水路(大和川)か陸路(竹内街道〜横大路)を通り当時の首都・飛鳥に伝わったと思われます。
 都が奈良を離れた後も、横大路は物資輸送の重要な街道として重宝されたのではないでしょうか。そして横大路は伊勢街道(伊勢本街道)とも呼ばれる様に、大阪と伊勢神宮を結ぶ重要な信仰の道でもありました。

 横大路は葛城市の長尾神社を西の起点とし奈良盆地を東に進みます。途中、八木で下ツ道と、桜井で上ッ道と交差します。壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)軍が横大路と北の横大路を巧みに使い、中ツ道/上ッ道/伊勢街道に軍を展開して戦いを優位に進めました。

 今回はかつての賑わいを伝えてくれる史跡を探しながら下ツ道〜上ッ道間を歩きました。   


今回のスタート地点は八木西口駅のすこし北側にしました


歩き始めてすぐに太神宮燈籠がありました
もともとは、後でご紹介する接待場(せんたいば;江戸時代に大流行した「おかげ参り」で伊勢に向かう旅人に対して食事や湯茶の接待をおこなったところ)にあったものを移築したようです
残念ながら八木西口駅からここ辺りまでは旧街道の
面影はありません。下調べしておいた史跡を辿りながら東に進みます。法務局の隅に「藤原京横大路南溝跡」の説明書きがありました。


法務局隅の説明書きを読んでみます。平成4年の発掘調査で深さ2.5mのところで藤原京の横大路南側溝が見つかり、その大きさは幅2.6m、深さ50cm 東西方向の直線の溝で中から7世紀末〜8世紀初の土器がたくさん見つかったそうです。横大路の道幅は30~40m程と考えられるそうです。

法務局から東に進み大通りを渡ると道幅が急に狭くなります。写真は接待場(せんたいば)跡。さきの太神宮燈籠はここにあったそうです。地図を頼りに探しながら歩いていましたが、つい見落として素通りしていました。期待していたものより狭くて残念でした。



接待場についての説明がありました。江戸時代に流行した伊勢神宮への参拝「おかげ参り」は多くの人々が仕事や家庭を放り出してまで何日もかけて伊勢神宮を目指したそうです。八木ではそんな旅人に無料で食事や湯茶の接待を行う場(せんたい場)を設け大切にしてきたそうです。

八木の恵比寿神社には接待場の様子が描かれた絵図が
残っているそうです


接待場から少し東に歩くと「八木札の辻」がありました
横大路と下ツ道の交差点で、以前下ツ道を歩いたときにも通りました

こちらの説明によると、横大路は大阪の難波京から藤原京につながる官道(道幅30~40m)で、現代の国道一号線のようなものだそうです。近世になって高札のかかる場所として「札の辻」と呼ばれる様になりました。


札の辻から北方向を見ます
このずっと先に平城京朱雀門があります
札の辻から更に東へ向かいます
この先には上ッ道との交差点があり
その遙か先に伊勢神宮があります
しばらく歩くと左手に耳成山が見えてきました
耳成山は香具山、畝傍山とともに大和三山と呼ばれ
古代の奈良では特別な山です。
耳成山の中腹にある神社(耳成山口神社)を目指そうと思いましたが、前日に通過した台風21号の影響で参道から未だにたくさんの水が階段を流れ落ちていました。今回の参拝は諦めました。



国道24号線を渡って街道の北側にある橿原山之坊郵便宿舎の壁面に案内版がありました。この下1.2mの深さに藤原京横大路北側溝跡がみつかったそうです。

案内版を読んで建物の裏に回ってみてみました
側溝跡が見つかったは、このタイル張りの
下側からでしょうか

米川を渡ると街道は少し蛇行します
橋の近くで大きなお地蔵さんが道行く人を見守っています

横大路を下ツ道から上ッ道へ歩いていて唯一の分岐点です
ここは左側に進みます
川の合流点付近に弘法大師堂がありました。クシャミに悩まされた大師が、この川の水を飲んだら治まったという言い伝えがあるそうです。

耳成駅の近くに三輪神社がありました。大物主櫛甕玉命を祀り、境内には立派なケヤキがありました。
立派なケヤキ

三輪神社の南西角、お地蔵さんの後ろに説明書きがありました


ここが中ツ道と横大路の交差点のようです。中ッ道は数カ所で分断されているようですが、いずれ歩いてみたいと思います。 

これが説明書きにあった礎石でしょうか
北方面を見てみます
これが中ツ道ということになりますね

南方面を見てみます
残念ながらこの先で中ッ道は途切れています
 三輪神社から東側は東西にまっすぐ伸びる歩きやすい道でした。気がつくと横大路と上ッ道の交差点 小西橋まで一気に歩いていました。下ツ道から上ッ道までの約4キロの距離ですが、史跡を探しながらウロウロ歩き回ったので、ここまで1時間半ほどかかりました。ここから更に東に進むと横大路は初瀬街道に続きます。

小西橋の交差点から南方向を見てみます
上ッ道はこの先で安倍山田道となり山田寺跡まで続きます

横大路と上ッ道の交差点から北側を見てみます。
このずーっと先に奈良町があり、当店"はり新"があります。
中世の旅人は奈良町で作って貰った弁当を持ってこの道を歩いて来たのかもしれません。

 今回歩いたのは横大路の極一部です。以前歩いた上ッ道に比べると歴史を感じさせてくれる様な史跡は少ないようですが、藤原京を横切る重要な官道であったことから、今後の発掘や研究で素晴らしい発見が期待できるかもしれませんね。近いうちに長尾神社〜八木の間も歩いてみたいと思いました。



















2017年10月19日木曜日

はり新のお料理(「木守柿」の作り方)

●以前にも取り上げましたが「木守柿」の作り方をもう少し詳しくご説明します
少し手間はかかりますが、調理は簡単

●秋の終わり頃、柿の木の天辺に真っ赤に熟した実が1〜2個だけが残ってるのを見掛けませんか。この柿を「木守柿」と呼び、冬の季語にもなっています。

 『柿の実を取る時は一番高い所にある実を取らずに残しおくように』と小さい頃に祖父から教わりました。神様の取り分だとか。厳しい冬を迎える鳥のために残しておくとも聞きました。この木守柿にちなんで、秋〜初冬には鶏卵を細工して作った「木守柿(もどき)」を作ります。




 木守柿は温泉玉子の黄身を味噌漬けにして鼈甲玉子を作り、これを細工して木守柿に仕立てます。(生卵の卵黄から直接、鼈甲玉子を作る方法もあるようですが、今回は温泉玉子から作ります)

 まずは温泉玉子を作ります。室温に戻した鶏卵を水から茹でて、湯温が65~70℃になったらその温度を40~50分間維持します。温度計を入れて40~50分間温度計を見て温度管理するのも良いですが、保温力のある大きめの土鍋なら70℃まで湯温が上がったら火を消してそのまま放置しておいても大丈夫です(蓋をしてくださいね)。

70℃以上にならないように気をつけて


 所定の時間経ったら、鶏卵を水に入れて粗熱をとってから殻と卵白を取って卵黄を取り出します。卵黄についた薄皮も丁寧に取ります。

 白味噌に味醂を加えて適当な固さに調整します。味噌の上にガーゼを敷き、その上に卵黄を乗せてからガーゼと味噌を乗せます。
味噌にガーゼを敷き、その上に温泉玉子の黄身を
乗せます。黄身はやさしくやさしく取り扱いましょう。

黄身の上にガーゼを乗せてから味噌を乗せます
卵黄に重みが加わると変形するので気をつけます
 温泉玉子を味噌に漬けたら2~5日間冷蔵庫で保管します。この状態(味噌床に漬かっていれば)で数日間は日持ちします。味噌床の中で温泉玉子は鼈甲色に変わります。


3日間味噌に漬けた玉子


 この後、鼈甲色になった温泉玉子(べっこう玉子)に昆布で細工して木守柿に仕上げます。
昆布を使って"へた"を作ります
昆布が少し厚いので半分に剥ぎました
細く切った昆布は軸にします

へたと軸に見立てた昆布を鼈甲玉子に乗せると
どうです、木守柿にみえませんか

より秋っぽさを演出するため木守柿を柿の葉にのせて


木守柿と栗、銀杏を色づいた柿の葉にのせると
色合いが綺麗ですね

鼈甲玉子を平たく伸ばして成形すると
イチョウの葉にもなります
 見た目も綺麗ですが、白味噌の甘味と塩気が染みこんだ木守柿はとっても美味しいですよ。

2017年10月7日土曜日

はり新の観光案内(鹿の角きり、切り落とされた鹿の角)

●10月7日〜9日の三連休は春日大社鹿苑で「鹿の角きり」が催されます。
奈良鹿の愛護会「鹿の角きり」案内チラシへ PDF

 オス鹿の角は毎年生えかわり、春先(2~3月)に自然に脱落して4月頃から新しく生え出します。秋になり角が完成する頃にオス鹿は発情期をむかえ、鹿がお互いに突き合って死傷したり人間に危害を加える恐れがあるため江戸時代初期、鹿の管理者であった興福寺が奈良町奉行の要請を受けて始めたと伝えられています。

 この行事は勢子(せこ)といわれる人たちが、角きり場に追い込まれた荒々しい鹿を捕まえ、神官によって角を切るという古都の秋を彩る勇壮な行事です。奈良市観光協会のサイトから引用しました

 子供の頃に角切を始めて見たとき、素手で角をつかんで雄鹿を押さえ込んだ勢子さんを見て興奮した思い出があります。

 春〜夏頃まで興福寺五重塔の前にはオス鹿だけの群れが居ます。一日中、ごろ〜んと寝っ転がりダラダラと過ごしています。が、夏の終わり頃からテリトリー意識が強くなり単独で行動するオスが増えてきます。秋になると角が完成し、ひとまわり身体の大きくなったオス鹿は、ヌタ場と呼ばれる泥地で泥に尿を混ぜて自分の身体に塗りつけます。人間には少し臭いのですが、これってメス鹿の気を引きたい必死のオシャレらしいですよ。発情したオス鹿に人が近付くと、前足をトントンと地面に叩きつけて人を威嚇します。不用意に近付いて刺激しないようにしましょう。数頭のメスを従えてハーレムを作ったオスは、夏前の冴えない"昼行灯"のような鹿とは大違いで、精悍な顔立ちで絶えずテリトリーを監視しています。

 以前、奈良の鹿愛護会様から鹿の角を送って頂いた事がありました。鹿まつりの抽選で当選したとのこと。鹿の角は、財運向上を約束してくれるラッキーアイテムらしいので、奈良の伝統工芸士さんに加工をお願いすることにしました。工芸士さんにお渡しする前に撮った写真をご紹介させて頂きます。
角はオス鹿にだけ生えます。満1歳で初めて生える角は枝分かれもなく1本の状態で生えます。7~8歳の壮年期には約60cm長さで三又四尖(さんさよんせん;3つに分かれて4つの枝角が生える)の立派な角になります。気象条件や餌の影響で左右対称にそろった角は1割ほどの鹿に限られ、10歳を超えて老齢期に入ると角は縮小傾向になり枝角がでなくなります。鹿角って意外と重いです。これが頭の上に乗っていると肩が凝りそうです。



角の断面はこんな感じ、始めて見ました。鹿の角は毎年生え替わります。2~3月頃、古い角が自然に落ちて4月頃から新しい角が生えてきます。この状態を「袋角」といい、1日に約2㎝も成長するといいます。秋になると角の成長と血流が止まり、表皮がはがれ落ち完成した硬い角になります。完成した角には血管も神経も通っていません。中央に細かな穴が開いていますが、血管の跡でしょうか。

表面がこんなにデコボコ、ゴツゴツしてると
初めて知りました

先端は硬くて鋭く尖ってます
これで突かれたら凄く痛そう・・

2017年10月4日水曜日

掲載誌のご紹介(ノジュール10月号/JTBパブリッシング出版)

●JTBパブリッシング出版のノジュール10月号にて当店をご紹介頂きました


●JTBパブリッシングのサイトを見ると、雑誌ノジュールは「50代からの旅と暮らし発見マガジン」と紹介されています。「旅」「健康」「暮らし、ライフプラン」「50からの手習い、60の再挑戦」「社会とのつながり」をテーマに、50代からの「自分ライフ」を面白くするヒントをお届けするライフスタイル誌ですね。

 本来「ノジュール」という単語は鉱物学の専門用語で、硬くて丸い石球(団塊)をそう呼ぶそうです。「団塊の世代」の語源にもなったもので、球の中心にアンモナイトや三葉虫などの化石が入っていることがあるとか。自分の中に眠っている才能の発見や新しい趣味の始め方など、"50代からの自分ライフを3倍楽しく"過ごすための情報が掲載されています。


 当店は『特集、秋色に染まる紅葉の奈良』のコーナーにて、粟ならまち店様、冨久傳様、柳茶屋様と一緒のページに掲載していただきました。他にも奈良ホテル様、佐久良様、本家菊屋様、千代の舎 竹村様、白玉屋榮壽様、江戸三様、四季亭様、むさし野様、奈良町宿 紀寺の家様とご一緒させていただきました。


 談山神社、吉野山、正暦寺の素晴らしい紅葉の写真もあります。その他にも日本最古の道「山辺の道」と一緒に秋の奈良の魅力をご紹介いただいております。
→ JTBパブリッシング「ノジュール」