2018年7月31日火曜日

はり新の観光案内(唐古・鍵遺跡史跡公園)

●今年4月にオープンした唐古・鍵遺跡史跡公園に行ってきました。→ 唐古・鍵遺跡史跡公園webサイトへ
「弥生時代なんて未開人だから面白い遺跡などあるの?」などと舐めてましたが、その智恵と技術力には舌を巻きました。
今から2200年以上前、奈良県田原本ではこの様な光景が見られたのではないでしょうか

●奈良盆地の中央部に位置するこの場所は今から約2200年前、近畿地方では最大級の大集落でした。そこには全国から翡翠や土器が集まり、銅鐸や青銅器を作って各地に送りだしていたようです。

地図で場所を確認しておきます(地図は八木札の辻に掛かっていたものを拝借)この地図は奈良盆地を表し、北側の赤色の格子が描かれている場所が平城京、南側の赤色格子が藤原京。新旧二つの都の間を上ッ道、中ッ道、下ッ道の大和三道が走ります。唐古・鍵遺跡と呼ばれる弥生期の遺跡は藤原京の北側、下ツ道周辺から見つかっています。奈良町からは車で約30分、下ツ道(国道24号線)を南下して行けば到着します。

奈良町から車で約30分、公園東側の駐車場に車を停めました。駐車場周辺には広大な水田が拡がります。かつて湿地だったこの辺りは昔から米作りに適した場所だと聞いたことがあります。2000年以上前からこの水田風景は変わらないのではないでしょうか。

駐車場の端に公園内の地図があったので位置を確認しておきます。公園中央に唐古池があり、その左下(南西)にランドマークの復元楼閣が建ちます。公園面積は42haですが、遺跡はこの何倍もの広大な範囲に広がっています。(現在までに調査がすんだのは全体のたった9%らしい)

駐車場から公園に入り左の方に歩き進みます。この辺りが「弥生の林エリア」、周囲の土壌から発見された植物の種子や農具に使われた木材などを元に選定された樹木が植栽されています。クヌギ、コナラ、クスノキ、ムクノキ、クリ、シラカシなどなど。去年〜今年に植えられた若い樹木なので今後、樹木が大きく生長して林になるのが楽しみです。

「弥生の林エリア」を抜けると遠くに楼閣が見えてきました。「弥生の建物広場エリア」から楼閣へと 近付いてみます。
「弥生の建物広場エリア」から楼閣に近付くと赤褐色の円柱が整然と並んで建っていることに気付きます





約2200年前に建っていた大型建物跡がこの辺りで発掘され、その柱を現しているのがこの円柱です。大型の高床倉庫と考えられているそうです。(柱一本が太い!)




復元楼閣に着きました。高さ12.5m、出土した絵画土器に描かれていたものを参考に平成6年に建設したもの。実はこの様な建物が建っていたという痕跡は未だ見つかっていないようですが、時代の異なる二つの土器に同じ楼閣の絵が描かれていたことなどから、いずれかの時代に楼閣のような建物が建っていたと考えることができるそうです。

数年前、下ツ道を歩いた時にチョコッと立ち寄って復元楼閣を撮影していました。その時と比べてみると屋根など少しアップグレードしていますね。


復元楼閣から遺構展示情報館に向かいます。その途中で、環濠の一部が再現されていました。環濠を作った目的は外敵から村を守るためだけでなく、地下水の水位を下げることにもあったそうです。(この辺りは50~60cm掘り下げると水が染み出してくる場所なので、そのままでは竪穴式住居も作れない。村の周囲に溝を掘ることにより地下水の水位を下げる必要があったそうです)


 遺構展示館に到着。公園裏手の駐車場から入園したので、こちらが公園の正面になります。
入り口にはキャラクターの「楼閣くん」  
遺構展示情報館に入ると壁際に唐古・鍵に存在した弥生時代の村の想像図がありました。周囲を川が何本も流れ、その内側に環濠を何重にも巡らしています。環濠の長さは総延長数キロ〜数十キロにもなり、水の流れを計算して水路を整備するには高い土木技術が必要だそうです。


想像図の近くにはジオラマ
映画"ナイトミュージアム"みたい!

遺構展示情報館のメイン展示はこちら「独立棟持ち柱」の建物遺構。伊勢神宮の正殿と同じ建築様式で、神聖な領域に建てられた建物の跡と考えられるそうです。それはそれは大きな柱跡が並んでましたよ。

遺構展示情報館を出て道を渡ると道の駅があります

こちらでは県内初!アイスブリュードコーヒーを飲むことが出来ます。泡が一杯、まるで生ビールみたい。冷たくて美味しかった〜。
なんでこの唐古・鍵に県内初のアイスブリュードコーヒーがあるかというと、この唐古はUCCコーヒー創業者 上島忠雄の出身地のようです。UCCコーヒーにとって特別な場所なんですね。遺跡公園に隣接してUCC唐古庭園もありました。



現在も唐古・鍵一帯は土地が肥え、美味しい大和野菜がたくさん採れます。この地で得た米を力とし、唐古・鍵の弥生人は各地と物々交換をして富を得、多重環濠や楼閣を持つ事により村を守り、周囲にその力を示した地域のリーダーだった・・、そんなことを想像した一日でした。
「多重環濠エリア」まで足を伸ばす予定でしたが、暑くて暑くて日陰のない公園内を歩き回るのはとても無理でした。園内を巡回してくる公園スタッフが来園者に片っ端から"大丈夫ですか、お水飲んでますか?"と声を掛けていました。環濠エリアはまたの機会にとっておきます。もっと掘り下げて勉強してみると弥生時代も面白そうです。


2018年7月19日木曜日

はり新の観光案内(興福寺中金堂と鬼瓦/落慶まであと3ヶ月)

● 興福寺の中金堂再建も終盤。落慶法要は今秋10月7日〜11日、中金堂の一般公開は10月20日から。覆いが外されて姿を現した興福寺中金堂を撮影してきました。


興福寺には金堂が三棟(西金堂は失われたまま)ありましたが、その中心的存在の中金堂は七度の焼失・再建を繰り返してきたそうです。最後の再建は文政2年(1819)、幕府財政難の影響で限られた資金での再建となり、"仮堂"と位置づけられるものになりました。その中金堂仮堂も平成12年に解体され、今回念願の中金堂が再建されることになります。興福寺にとっては約300年ぶりの中金堂本格再建です。


覆いが外されて全容を現した興福寺中金堂
屋根上の鴟尾にはまだ覆いが掛けられています
右手の茂みの陰に奈良県庁が見えます

当店の女将曰く"平城京の大極殿にそっくり"(写真は大極殿)


平成12年までの中金堂("仮堂"と表記されています)

以前、再建工事中の鴟尾を撮影したものです

西側(南円堂近く)から中金堂を見てみます
写真右下に見えるのが若草山

この位置から裏鬼門の鬼瓦を確認できます
2015年4月 建設中の中金堂を見学したときの写真

中金堂を南東側(五重塔近く)から撮影
東面には足場が残されています
その後ろに仮講堂が見えます。仮"講堂"はこの中金堂が建つまでは仮"金堂"と呼ばれていました。

振り返ると東金堂があります
屋根の反りが優美ですね

応永22年(1415)に再建されたものです
こちらの鬼瓦はどうでしょうか(中金堂の撮影から脱線してしまいました)


東金堂の鬼瓦も迫力満点


東金堂鬼瓦をアップで


では五重塔の鬼瓦はどうでしょうか。中金堂再建事業が落ち着いたら、興福寺の次の大事業は五重塔解体修理のようです。

実は五重塔というものはとんでもなくタフな建物のようです。日本全国に高さ20mを越える五重塔は80以上ありますが、火災や落雷で焼失、倒壊した記録はあるものの地震で倒壊した記録は残っていないそうです(阪神淡路大震災や関東大震災で激震に見舞われた地域にも五重塔がありましたが、他の建物が倒壊しても五重塔は倒れませんでした)


五重塔初層 北西の瓦
立派ですねぇ

五重塔初層 鬼門方向の鬼瓦
迫力あります


南円堂の鬼瓦はどうなっているでしょうか?いつもたくさんの人で混雑している南円堂前ですが、この日は暑くて暑くてほとんど人が居ません。

南円堂には獅子鬼瓦


先の獅子と合わせて「登り獅子」と「下り獅子」
「阿形」と「吽形」、「静」と「動」

南円堂の屋根瓦・・、おもしろい・・

面白くなってきたので鐘楼も見上げてみます


鐘楼の上でも鬼瓦が目を光らせています

この日の奈良は最高気温が38℃でした
興福寺境内を15分ほどあるいただけで汗だくです
赤色の"のぼり"が余計に体感温度を上げてくれます
あっちっち〜、熱中症になる前に早く帰ります。

お地蔵さんも暑そう。参拝者がいないのでカラッカラに乾いています。お水をたっぷりと掛けてから、ならまちに戻りました。

中金堂の落慶法要は10月7日〜11日の5日間。一般公開は10月20日からです。落慶法要の期間、当店は特別な「かみつみち弁当」を御用意させていただきます。

2018年7月13日金曜日

はり新の観光案内(聖徳太子の通勤路 "太子道" を歩く)

●大和の古道ウォーク、今回は「筋違道(太子道)」を歩きました。「聖徳太子プロジェクト」として自治体が案内版などを整備している部分が多く、たくさんの史跡を見て楽しみながら歩くことが出来ました。



●聖徳太子が通った道を"太子道"と呼ぶことから奈良近辺に太子道は何本か存在するようです。今回歩いたのは太子が斑鳩の里〜飛鳥宮までを通った道で、奈良盆地を斜めに走ることから"筋違道"とも呼ばれます。


中ッ道と同じく今回も橘寺をスタート地点としました
橘寺は聖徳太子誕生の地と言われます
天気は少し曇り(2018年4月9日の記録です)

川原寺跡の北側にある板蓋神社につきました
今回は階段を登ってお詣りさせていただきました
とてもシンプルな境内です

中ッ道(橘街道)と太子道との分岐点
右手の道路を直進すると中ッ道を経由して平城京へ
左に曲がって飛鳥川沿いを進むと太子道を通って法隆寺へ
飛鳥川沿いでは万葉歌碑をいくつか見ることが出来ます
太子道を外れて藤原京跡に入ってみました

飛鳥川に沿って1時間ほど歩くと「おふさ観音」に到着です。こちらはバラと風鈴で有名なお寺、境内一杯の美しいお花から「花まんだらのお寺」とも呼ばれています



おふさ観音を西に進み、近鉄橿原線をくぐると蘇武橋がありました。蘇武橋は聖徳太子がここを渡って斑鳩から飛鳥宮へと通った橋として有名です。ここ橋を渡るとそこは今井町、今井兵部が称念寺を中心として結束させた城塞都市です。中世以降「海の堺、陸の今井」といわれるほどの力を持つ今井町ですが、聖徳太子の時代はどの様な景色が拡がっていたのでしょうか。


蘇武橋のエノキ、幹周5m、樹高14m、樹齢推定420年

こちらは蘇武之井。聖徳太子が愛馬に水を飲ませるのに使った井戸と伝わります。この後、今井町を少し散策してから先に進みました。

今井町から先も飛鳥川に沿って北上します。
約1時間進むと田原本の多神社に到着します。正式には多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ)。この辺りは古事記を編纂したことで知られる太安万侶を輩出した多一族の本拠地でした。かつては境内が六町四方もあったそうです。現在は学問の神として信仰を集めています。橘寺からここまで10キロ、2時間半。

多神社前の案内には「中街道(下ツ道)」の文字
この辺りは既に下ツ道の西側です




飛鳥川に架かる橋から南方面を見てみます
写真奥が明日香村、川の水は明日香村から手前に流れています。聖徳太子は水路(飛鳥川)を使って舟で飛鳥まで通っていたという人がいます。古奈良湖の水が飛鳥時代にはまだ残っていたと考えれば、納得できる説ですね。


この辺りは多遺跡としても有名です
この後、飛鳥川沿いの道を離れて北に進みます。


田原本町の北端まで歩いて来ました。ここから北側では数多くの神社が並びます。まずこちらは鏡作伊多神社。ご祭神の石凝姥命は天照大神の霊に則って八咫鏡を作った神。
この辺りには鏡作神社が数多く見られます。橘寺からここまで約12キロ、3時間半。

孝霊神社まで歩き進みました。第7代孝霊天皇のお宮があったと伝わる場所ですが、孝霊天皇は欠史八代の一人です。それだけに、この神社の境内に立つと神話の時代のことをいろいろと想像できて楽しい。
橘寺から4時間、15キロ。

田原本は「桃太郎伝説発祥の地」でもあります。
桃太郎伝説は岡山、香川、愛知など全国各地にあり、それぞれが桃太郎ゆかりの地としています。古事記や日本書紀に出てくる"吉備津彦"が桃太郎のモデルになったという説があり、この吉備津彦が平定したのが吉備の国(岡山)だと言われます。しかし、吉備津彦が第7代孝霊天皇の子であることから天皇の宮が置かれていた田原本が吉備津彦(桃太郎)生誕の地と言われています。


万葉集にも詠まれた「あざさ」、この幻の花を見ることができます(5〜10月の話ですが・・)私が歩いた4月はまだまだ・・。

三宅町伴堂の杵築神社


三宅町屏風の杵築神社




聖徳太子が斑鳩宮から飛鳥へ通う様子ですね

三宅町屏風の杵築神社の前には腰掛け石
太子道から少し離れたところに「面塚」がありました。
この辺り、川西町結崎は大和猿楽四座の一つ観世座(結崎座)の本拠地だったそうです。観阿弥清次が演能の成功を祈って糸井神社に日参したとき、天に大きな音が響き翁面と一束のネギが降ってきたとか。面は塚に納められネギは周辺で栽培されて味の良さが評判となったそうです。そのネギは現在「結崎ネブカ」の名で大和伝統野菜に指定されています。

面塚から寺川を渡って糸井神社に到着。鳥居の朱色が眩しい。創建年代は明らかではないが、応神天皇の時代に呉の国から渡ってきた二人に織姫が天皇の命により綾錦を織ったとされ、機織りの糸に関係ある「綾羽(あやは)」と「呉羽(くれは)」が祀られています。橘寺から5時間、17キロの位置です。
油掛地蔵に到着、できものを治してくれるお地蔵さんのようです。案内版には「クサできている子の母親がこの地蔵さんにお祈りして油をかけていると、クサが治ったと言われており、願をかける日には油を掛ける習わし(燃灯供養)があることと、当時この付近に水害が多いため、油を掛けて水を弾くようにと言うことから油掛地蔵と言われている」との説明がありました。


川西町吐田の杵築神社。太子道の北側で杵築神社が三カ所もあります。気になったので後日調べてみました。これらの神社では江戸末期まで、疫病を流行らせると言われるインドの神 牛頭天王を祀っていたそうですが、明治初期に神仏分離令が出されると、牛頭天王がスサノオノミコトの本地仏とされる事から御祭神をスサノオノミコトとし、スサノオノミコトを御祭神とする杵築大社(今の出雲大社)から名を杵築神社と改めたそうです。ここまで橘寺から約5時間半、18キロ。

飽波神社に到着しました。聖徳太子が牛頭天王を祀るために建てたと伝えられます。ここも牛頭天王です、昔は疫病を大変恐れていたという事でしょうね。ほぼ休みなしで歩いて来たので少し疲れました、境内で座って休憩できる場所を探してみます。

境内奥にすすむと休憩にちょうど良い石があったのですが先に聖徳太子が座って休んでいました(笑)ここにも"太子腰掛け石"があります(聖徳太子の案山子が座っていますね)。この辺り(安堵町)はいま、案山子の町として有名です。ちなみに安堵町の名の由来は諸説ありますが、聖徳太子が飛鳥宮から帰ってくる際、もうすぐ斑鳩だと"安堵"した場所だからとの説がありますが、飛鳥から歩いて来た自分にはとても説得力のある話です。ここまで橘寺から6時間、約20キロ。法隆寺まで残り3キロほど、あと一頑張り。

上宮遺跡公園に立ち寄りました。こちらの公園は平成3年ふるさと創世事業の一環として公園を造った際に偶然発見された遺跡です。聖徳太子が晩年過ごした葦垣宮があったと言われ、奈良時代の建物群跡が発見された場所です。

やっと法隆寺駅に到着しました。予定より遅れたので法隆寺の拝観時間はとっくに終わってしまいました(残念)。仕方ないので法隆寺駅をゴールとしました。橘寺からここまで約23キロ、史跡を探してウロウロと脇道に逸れたりしたので所要時間は6時間半、実質26キロほど歩いたと思います。上ッ道や下ツ道は名阪国道の北側で道が途切れていたり住宅地になっていたりしましたが、太子道は全体的に歴史色が濃く、最後まで楽しく歩くことができました。

聖徳太子が馬で飛鳥まで通うなら片道2時間弱は掛かったのではないでしょうか?数カ所の「腰掛け石」で休憩しながら通っていた風景が容易に想像できました。