●聖徳太子が通った道を"太子道"と呼ぶことから奈良近辺に太子道は何本か存在するようです。今回歩いたのは太子が斑鳩の里〜飛鳥宮までを通った道で、奈良盆地を斜めに走ることから"筋違道"とも呼ばれます。
中ッ道と同じく今回も橘寺をスタート地点としました 橘寺は聖徳太子誕生の地と言われます 天気は少し曇り(2018年4月9日の記録です) |
川原寺跡の北側にある板蓋神社につきました 今回は階段を登ってお詣りさせていただきました とてもシンプルな境内です |
中ッ道(橘街道)と太子道との分岐点 右手の道路を直進すると中ッ道を経由して平城京へ 左に曲がって飛鳥川沿いを進むと太子道を通って法隆寺へ |
飛鳥川沿いでは万葉歌碑をいくつか見ることが出来ます |
太子道を外れて藤原京跡に入ってみました |
飛鳥川に沿って1時間ほど歩くと「おふさ観音」に到着です。こちらはバラと風鈴で有名なお寺、境内一杯の美しいお花から「花まんだらのお寺」とも呼ばれています |
おふさ観音を西に進み、近鉄橿原線をくぐると蘇武橋がありました。蘇武橋は聖徳太子がここを渡って斑鳩から飛鳥宮へと通った橋として有名です。ここ橋を渡るとそこは今井町、今井兵部が称念寺を中心として結束させた城塞都市です。中世以降「海の堺、陸の今井」といわれるほどの力を持つ今井町ですが、聖徳太子の時代はどの様な景色が拡がっていたのでしょうか。 |
蘇武橋のエノキ、幹周5m、樹高14m、樹齢推定420年 |
こちらは蘇武之井。聖徳太子が愛馬に水を飲ませるのに使った井戸と伝わります。この後、今井町を少し散策してから先に進みました。 |
今井町から先も飛鳥川に沿って北上します。 約1時間進むと田原本の多神社に到着します。正式には多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ)。この辺りは古事記を編纂したことで知られる太安万侶を輩出した多一族の本拠地でした。かつては境内が六町四方もあったそうです。現在は学問の神として信仰を集めています。橘寺からここまで10キロ、2時間半。 |
多神社前の案内には「中街道(下ツ道)」の文字 この辺りは既に下ツ道の西側です |
飛鳥川に架かる橋から南方面を見てみます 写真奥が明日香村、川の水は明日香村から手前に流れています。聖徳太子は水路(飛鳥川)を使って舟で飛鳥まで通っていたという人がいます。古奈良湖の水が飛鳥時代にはまだ残っていたと考えれば、納得できる説ですね。 |
この辺りは多遺跡としても有名です この後、飛鳥川沿いの道を離れて北に進みます。 |
田原本町の北端まで歩いて来ました。ここから北側では数多くの神社が並びます。まずこちらは鏡作伊多神社。ご祭神の石凝姥命は天照大神の霊に則って八咫鏡を作った神。 この辺りには鏡作神社が数多く見られます。橘寺からここまで約12キロ、3時間半。 |
孝霊神社まで歩き進みました。第7代孝霊天皇のお宮があったと伝わる場所ですが、孝霊天皇は欠史八代の一人です。それだけに、この神社の境内に立つと神話の時代のことをいろいろと想像できて楽しい。 橘寺から4時間、15キロ。 |
田原本は「桃太郎伝説発祥の地」でもあります。 桃太郎伝説は岡山、香川、愛知など全国各地にあり、それぞれが桃太郎ゆかりの地としています。古事記や日本書紀に出てくる"吉備津彦"が桃太郎のモデルになったという説があり、この吉備津彦が平定したのが吉備の国(岡山)だと言われます。しかし、吉備津彦が第7代孝霊天皇の子であることから天皇の宮が置かれていた田原本が吉備津彦(桃太郎)生誕の地と言われています。 |
万葉集にも詠まれた「あざさ」、この幻の花を見ることができます(5〜10月の話ですが・・)私が歩いた4月はまだまだ・・。 |
三宅町伴堂の杵築神社 |
三宅町屏風の杵築神社 |
聖徳太子が斑鳩宮から飛鳥へ通う様子ですね |
三宅町屏風の杵築神社の前には腰掛け石 |
太子道から少し離れたところに「面塚」がありました。 この辺り、川西町結崎は大和猿楽四座の一つ観世座(結崎座)の本拠地だったそうです。観阿弥清次が演能の成功を祈って糸井神社に日参したとき、天に大きな音が響き翁面と一束のネギが降ってきたとか。面は塚に納められネギは周辺で栽培されて味の良さが評判となったそうです。そのネギは現在「結崎ネブカ」の名で大和伝統野菜に指定されています。 |
面塚から寺川を渡って糸井神社に到着。鳥居の朱色が眩しい。創建年代は明らかではないが、応神天皇の時代に呉の国から渡ってきた二人に織姫が天皇の命により綾錦を織ったとされ、機織りの糸に関係ある「綾羽(あやは)」と「呉羽(くれは)」が祀られています。橘寺から5時間、17キロの位置です。 |
油掛地蔵に到着、できものを治してくれるお地蔵さんのようです。案内版には「クサできている子の母親がこの地蔵さんにお祈りして油をかけていると、クサが治ったと言われており、願をかける日には油を掛ける習わし(燃灯供養)があることと、当時この付近に水害が多いため、油を掛けて水を弾くようにと言うことから油掛地蔵と言われている」との説明がありました。 |
飽波神社に到着しました。聖徳太子が牛頭天王を祀るために建てたと伝えられます。ここも牛頭天王です、昔は疫病を大変恐れていたという事でしょうね。ほぼ休みなしで歩いて来たので少し疲れました、境内で座って休憩できる場所を探してみます。 |
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